内向的であることの強みを再確認する

INFPやINFJ、それ以外にもいくつもある内向的な性格の人間は、弱い人間であると思われがちです。

なぜなら大多数の人が出来ることがすんなり出来なかったり、人付き合いに消極的で理解もされにくく、不安がちである性格から弱々しくも見えます。

根暗で神経質で、何を考えているのかわからないと思われることもあるでしょう。

一方で陽キャパリピな方々はノリで仲良くなっていけたり、細かい事を考えないような振る舞いでガンガン進んでいくものです。

世間的にも歓迎されるのはノリの良い方ですよね。実力のある無し以前に、とっつきやすさから入り口が開かれるということはよくあることで、人間の特性上「わからないものは怖い」と思われてしまうことからも、わかりやすい人種こそ歓迎されるのは仕方がないことです。

結果締め出しをくらうのが、我々のような内向的な人間であるのです。理解される以前に放り出され、見向きもされずにひっそりと過ごすしか無くなってしまう人も少なくはないでしょう。

だったら我々のような内向的なINFの民は、外向的な人になる努力をする必要があるのでしょうか。みんなと同じになる事が正解なのでしょうか。

これがもしYESのみが答えであったら、我々には絶望しかありません。

もちろん、INFの民の方にも外向的であろうと頑張る人がいます。なのではっきりとYESとNOでの答えは出すべきではないのでしょうが、いうなれば

自分らしく生きることが内向性の強みに変わっていく

はずだと、はっきりと言います。

外向的な事ができる人は、出来た結果が自分らしく生きた結果であると思いますし、出来ないこともまた肯定すべきです。

そもそもの外向性を称える風潮の始まりは何に合ったのでしょうね。

私はあるアニメの言葉から引用して、今でも覚えている「誰でもわかる外向性賛歌」は幼稚園の「1年生になったら友達100人出来るかな」です。

元々は楽しい歌として書かれたものでしょう。幼稚園児が新しく進むステージを楽しく思い描くのにわかりやすい歌ですよね。

これも幼稚園児の頃は良いでしょう、小学生に上がってのしばらくの間までは、良い歌の認識はあるのではないでしょうか。

しかしこの歌詞はいつしか呪いのように感じて来ます。友達はいて当たり前で、出来るなら100人作れ、というように聞こえて来るのです。

そしてにぎやかなクラスメイトには本当に100人くらい友達がいるようにも見えたりして、内向的な子供にとってはだんだん嫌な歌として頭の奥にこびりついて行くと思うんです。

外向的であることが良し。それを植え付けるかのようにも聞こえてしまうその歌を打ち破ったのは、私にとってはとあるアニメの一言でした。詳しい言葉は忘れてしまったのですが

「100人の友達より、100人分仲良く出来る友達を一人作ればいい」

という言葉です。一転して内向性の極地にもあれる希望の言葉になってくれました。

実はこれ、内向型の人間の適性を表した言葉になっているんです。

内向的な人の中でもINFの民はその性質上”極”という言葉に最も近い位置にいます。普通の人とは浮いているため、スタート位置がより”振れている”わけです。

友達100人を用いて説明すると、外向的な方は友達を100人作ることを良しとする、ということは、当然浅く広く、という関係性が得意ということになっていきます。

この性質は何に対しても言えるのです。人に対しても仕事に対しても、なんでもテキパキこなせます、深いこだわりがないので直線的に物を見ていられるのです。が、あまりに深い地点には到達しえません。新しい物を生み出すことも得意ではありません。また、環境が変わると友達関係がぷっつり途切れてしまう人も多い。これが友達100人方式です。

一方で友達が100人出来ないタイプの人。100人分仲良く出来る一人を作る人はどうでしょう。

100人と仲良く出来ないから、極少人数の友達と、とても深い関係になれますよね。INFの民であればきっとメディアが好きな人も多いでしょう、夜遅くまで一緒にゲームをしたりアニメの事を語ったり、時間を忘れて一人の友だちとずっと話していられます。それに環境が変わろうと、例え時間が開こうとも、その関係性は崩れない事が多いのではないでしょうか。

私も小学校の頃からまだ友達関係が続いている友人もいますし、高校で出会ってからほとんど途切れず毎晩のようにゲームをしている友人もいます。今はもっぱらモンハンですね。

そういった関係が作れるのは「内向的だから」でしょう。

そしてこれは良くも悪くも日常で同じように作用します。外向的な人の例と真反対で、まず仕事を選びます。ノリでこなせるような仕事はまず向きませんし、やろうと思わないですよね。

しかも友達になれる人というのは当然、自分に合う人だけです。合わない人に対してでも合っているかのように振る舞えるような器用さを持つ外向的な人と違って、我々のような人間は嫌な人は嫌です。

これは仕事なんかに関してもそうですよね。嫌なものは嫌だ。でも気の合う友達となら時間を忘れられる、という性質が仕事に置き換わったら……そんな天職を見つけることさえできたらINFの民は時間を忘れて打ち込むはずです。

そこにたどり着くまでは険しい道だと思います。でもそんな風により深みへと到達出来るのは内向的な人種だけです。

ただ世間はあまりその存在を許してはくれません。弱さを捨てて、みんなと同じように強くなれと囁いてきます。

でも今はそうじゃないはずです。この情報社会の中で、本当に強い弱いがあるのでしょうか。

もし内向性が弱さと定義するのなら、内向的な人間は自分の弱さを認められる心の強い人間です。外向的な人間が嫌々でも周りに付き従うのであれば、それは主張出来ない弱い人間ということになります。

結局強い弱いは考え方次第ですから、だったら我々は自身の強みについて考えるべきですよね。

ただ一つ言えるのは、静かで怖がりで内向的な、一般的に弱いとされる人間が最も”極”に近い位置にいるということです。そこへ到達出来る才能を持って生まれたのが我々内向的な人間です。これって圧倒的な強みですよね。

それを発揮できる場所を探すのは、100人分仲良く出来る一人を探すのと同じくらい大変でしょうけど、持って生まれた内向性という強みを活かすため、それを探す価値は、全ての意味で意義深いものになるのではないでしょうか。