何故外向的な人の性格はきつく、内向的な人は優しいのか

かなり偏見の強いタイトルですが、まず最初に外向的な方でも非常に優しい方はいますし、内向的な人で他人を遠ざけようときつく当たる人もいます。

ただ傾向として、そういったパターンが多いという程度でとどめておいていただければと思います。

例えばどこかの会社に入った時の話。

その会社が優しい風土であれば、外向的な人の性格は優しいものです。自分がそう育成されてきていた場合、新人のあなたにもそういった教育をするでしょう。

逆に厳しい風土であれば、外向的な人の教育は厳しくなります。ここで優しいのは内向的な人だけという事が多いです。

それは何故なのでしょうか。

理由はいかに自分の中で対話が出来ているのかであると思っています。

外向的な人の場合、その意識は自分ではなく他人にあります。思考の中心が他人にあるのです。誰かがこう言った、世間がこう思っている……そこを基点に自身の発言を行います。だから「これはこうであるべき」「こうじゃなきゃだめ」といった物言いをします。

自分がこうされてきたのだから、自分もこうしていいはずだ、という無意識があるのです。そこに「でも相手は嫌がるかもしれない」という自己対話があれば、それは内向的な一面を持っている人になります。

組織のリーダー格に当たる人が社会の偏見を声高に代弁するパターンが多いのはここからです。その声を大きく出来るほど他人から支持されていくことがわかると思います。

ただ落とし穴、というか当然の帰結になりますが、そういった人は世界を広く知らなければなりません。ネットの場で狭い視野の中で時代錯誤な事を言ってしまうと一転して自滅に繋がりますよね。

反対に、どこにいても優しい人というのがいます。こういう人は物静かであったりすることが多いでしょう。

それはなぜかと言うと、これこそ自分の内面に向き合っているからです。相手がどう思うか、というよりもまず自分が言われてどう思うかをより実践的に考えられる、自分の中で吟味出来るのが内向的である人の強みですから。

その場所がどこでも、環境がなんであれ関係ありません。嫌なことが嫌だと考えることが出来る内向的な人間は、他人に感情移入できるほどその「自分が嫌な思いをする(かもしれない)事」を共有出来ます。

結果として、外向的な人よりも内向的な人の方が優しい人が多いのです。

とは言え、ここでは「外向的」「内向的」という2タイプにのみ分けてしまっていますが、人はもっと多種多様ですので、部分的にはこう、部分的には別というパターンも当然あります。

しかしやはり、外向的な人にとっての異物となるのが内向的な人です。自分の敵にならない程度、静かなだけなら良いかもしれません。

でも内向的な人が、そうやって環境や状況に関わらないで優しさを体現出来るなら、それはつまりそれだけ強いということにもなります。自分という基準を持った上で強いのです。

それは他人を基準にして生きている人にとっての驚異にもなるでしょう。

仮に一人の心パワーが10だとします。それが九人集まっていたら、そこに外向的な人が加わることで100のパワーが生まれます。一般的な外向的な人の集まりです。

しかし内向的な人は、一人でも心パワーを90持っているとしたらどうでしょう。

外向的な人は心パワー90の派閥と個人、どちらにつくでしょうか。まぁ大抵の場合派閥に属して100でしょう。一般的に個人であることは弱いことだとされていることもありますし、やはり数のちからは強さを生みますから。

強くても孤立してしまう内向的な人というのは、どうもこの辺に理由があるのではないかなと思ってしまいます。

派閥はそれだけで周りの意見を取りまとめやすく、個人であることは評価にあまり繋がりません。だから余計に、内向的な人は外へと追いやられていきます。派閥の外で静かに暮らしているなら邪魔しないでやろう、なんて思われる程度ではないでしょうか。

この辺の認識は日本社会では各所に見受けられます。いじめの構図にも多いのかもしれません。

でもやっぱり、私は自分自身にあまりそうは思いませんが、内向的な人はかっこいいと思います。

自分が除け者にされ、排除されたと思った方、あなたは間違いなく強いはずです。心パワー90側の人間です。もうひとり仲間を見つけるだけで、寄り添った心パワーは200にも届くのです。