苦労は買ってでも、なんて事を言う人がいる

世間一般から見た成功者が自分のラジオ番組の中で「苦労はするべきだね」なんて言っています。私が尊敬するアーティストが言っていましたが、こういうのは大嫌いです。

ゴールが同じ場所にあるとします。10メートル先にあるりんごが欲しい。

Aのコースは、まっすぐ伸びた舗装された道。

Bのコースは、険しい山になった荒れた道。

人間は生活を良くしようと、多くの道をAに変えてきたんです。苦労をしないことに叡智を注いでいるんです。

だからここで「苦労は買ってでもするべきだ、Bへ行け」とされた時、それは停滞しろ、私より前に行くな、という言葉の裏返しだと思っています。

誰かが偉そうに言った言葉の多くに、私は反抗したいと思ってしまうんですよね。

ここで選ぶべき道はAでもBでもないんです。かと言って選択肢の外にあるCでもない。「自分が選ぶ道」であるべきではないでしょうか。

今手元に目先にあるりんごに興味がないならAでそのまま行けばいい。

Bを行くことで、すこし疲れて美味しくりんごを食べたいならそっちへ進めばいい。

余裕はあるけど、すこし山道を歩いて景色を変えたいならBへ行けばいい。

今はすこし疲れているならAを行けばいい。

だってその人がどこで苦労しているかなんて、他の人にはわからないと思いませんか?目には見えないけど疲れ切った人がいて、その人にBへ行けと言ったら壊れてしまうかも知れない。

日本にある言葉って、出る杭を打つための教えが多いんです。平均化してしまうような。

だって就活で「苦労は買ってでもするのがモットーです!」というのと「徹底的に楽がしたいです!」というの、どっちが印象良いと思いますか?論ずるまでもなく前者ですよね。

でも世界を変えてきたのって、楽をしたい気持ちからなんですよ。苦労をしたいなんて言ってる人は大衆心理に乗っかっているだけ。楽がしたいから世の中便利になるわけで。

だって苦労がしたい、苦労をしろ、なんて高らかに言う人、矛盾していませんか?

夏場、エアコンつけませんか?冬の暖房は?苦労したいなら肉体一つで乗り切ってみますか?

車や電車で移動していませんか?苦労がしたいなら自分の足で走るべきでは?

パソコン、使っていませんか?自分で書き出した資料や言葉、身振り手振りで伝える苦労をしてみるのも苦労では?

人が進む上で、最も進歩することって「楽をするため」のはずです。どうしてそこにわざわざ枷をつけるのか。

そういう意味の苦労じゃない?だったら苦労をしろと他人に言う必要がありますか?その人の苦労はその人のモノです。だったら言うべきなのは「常に考えて、必要な事を選択しようね」という言葉なのでは?

いろいろな事が辛いから楽をしたい、そんな事を言えるのは、多分INFの民を中心としたパーソナリティを持つ人だけです。

そして今そういう人たちが増えています。だから日本は生きにくく、疲れてしまう。それに全体数ではやっぱり苦労を買えという人間が多いので、そこに当てられると生きることもままならない。でも苦労を買う人間って、苦労代を上に立つ人に売られて”飼われてる”んです。

私達のような人間が世間に出来ることの一つって、もっとわがままを言うことにもあるんじゃないかなと思いついた、という話でした。