最愛の母が死にました

昨日の夜、この世で一番大好きな母が息を引き取りました。

現実を受け入れられていないのですが、涙を流すのと交互に気持ちを吐き出すため、ひとまず日記的にあったことをまとめようと思います。

2021年4月21日の夕方5時ごろ、病院から血圧が下がっているという連絡を受け、母の入院する病院に向かいました。

7時ごろに到着すると、意識の薄れた母が酸素マスクをつけています。最初は呼びかけてもほとんど反応がありませんでしたが、呼びかけを続け、時間が経つにつれて母親は意識を取り戻し、もう口を上手に動かせないなりに「あー」とか「うー」という言葉の抑揚で会話することができました。

どんな会話をしたかといえば、ずっと帰ってからの話をしていたと思います。

余命宣告されてからでも、母にはとにかく「治るってさ」と、「今どきは肝臓がんで死ぬ率って低くなっているんだって」と、嘘と本当を織り交ぜながら前向きにさせることばかり言っていました。

人は前向きになると免疫力が高まると言うし、笑ってればがんは消えるとも言うし。だから命日となる日にも、ずっと前向きな言葉をかけ続けていました。

すると母は、とにかく頷くのです。帰ろうねといえば頷き、帰ったら何を食べるかと聞くと「うー」と考え、お寿司?と聞けば頷き、またお肉?と聞けば頷き。

時間が経つと医療麻薬が切れてきて、痛い痛いと呻き始めます。体に何本も刺さる点滴をお構いなしに体を掻きむしり、肌は傷だらけになっていました。肘なんてテーピングの下が真っ赤になっています。

それでも「痛いね、でもここが乗り越え時だからね、一番つらいところだけど大丈夫だからね」と声をかけると、やっぱり頷きました。

どうしても痛いと、看護師さんに麻薬を追加してもらうと静かに穏やかになります。

でも体の体温は上昇してきていて、母はそのうち暑い暑いと言い出すようになりました。私と妹は風を送ってあげると、少し心地よさそうでした。

麻薬が効くと意識が遠のくこともあり、黙っている時間もしばしばありました。

手を撫でて、母の温もりを感じる最後の機会でした。

静かな時間にはずっと「あつまれどうぶつの森」のテーマソングや一番家で聞いていた楽曲を流し続けました。母親はプレイこそしませんでしたが、私や妹がプレイしているとなんとなく見ていて、割と好きだったようなのです。

だから部屋の中では長い間、あつ森の音楽が流れ続けていました。すごく穏やかな時間でした。

そして時間はどんどん過ぎていきます。でも母親は強くて、なんと血圧を安定させたんです。

そんなものですから、コロナの制限がある中、帰宅してほしいことを病院に伝えられました。でもいつ何が起こるかわからないから、どうにか居られませんかと看護師さんに頼み込むと、特別に滞在を許可してもらえました。

その後もやっぱり母は頑張ってくれて、意識を取り戻しては話を聞いてくれるし、血圧が乱れることもなく日付をまたぎました。

母の体の向きを変えたり、痰を取る作業をしてくれた看護師さんに、こんな話をしました。

「本人がすごく前向きだし、進行がすごい速いがんだったのだから、もしかして途中で動きが止まって良くなってる可能性があるんじゃないですか」みたいな話です。

緩和ケアからでもよくなる例なんてネット上にはゴロゴロ転がっています。だからきっとそうだと思いました。

だって母親の心は全く弱まっていなかったのですから、奇跡の第一号になるかもしれないと、私は本気で思って聞きました。

でも看護師さんは「確かに自分たちの想定よりずっと頑張ってる」「でも体の反応を見ると……」と言葉を濁して、それでも母は前向きだから、何かリスクがある治療法でも乗り越えてくれるような気がする、ということを相談しました。

看護師さんはそれに対して、朝に主治医が来るから、そのときに相談できるようにしますと言ってくれました。

ここでの希望はとにかく大きかったです。何かが起こる気がしました。もう死ぬのを待つだけなんて言われてたけど、たとえ車椅子でも家に帰れるかもしれないと思いました。

でも3時頃から容態が急変しました。

静かに呼吸していた母が、突然大きく呼吸をし始めたのです。それまでほとんど開いていなかった目をカッと開いて、何事かと思いました。

白目の端は黄色くなっていて、私と妹は直感的にすごく悪いものを感じ取ったんだと思います。

それまでは何をしようかとか、本当に他愛のない話を聞いてもらっていただけなのですが、二人共母の近くで、とうとう「諦めちゃだめだよ」とか「生きるんだよ」とか、ここにきて初めて応援ではない「死の否定文」のような言葉をかけることになりました。

見開いた目は少しずつ閉じていき、また呼吸が安定してきたので、なんとか乗り切ったと少し安心感もありました。

でも、穏やかになった呼吸のリズムがどんどん遠のいていくんです。

それに息の吸い方も、それまでは「ゼー、ゼー」という音だったのが「ヒューッ……」という、一つの音を途切れさせるような、感覚の長いものになっていきました。

その長さは呼吸を繰り返すごとに長くなっていき、ここで妹が崩れました。「ありがとね」と「育ててくれてありがとう」と。

私はそれでも、まだ諦められませんでした。「だめだよ!吸って!」と声かけて、呼吸の度に「息して!」と言っていました。するとちゃんと吸ってくれるんです。何回か、それが届いた気がしたんです。

でも、やがて呼吸は止まりました。最後の方の呼吸は舌が少し上下しているのが見えて、それまでの呼吸とは違ったので、もうだめなんだと、やっと最後の数回の呼吸のところで私も「ありがとう」と声をかけました。

たとえ心臓が止まっても脳は少しのあいだ動いてて、声が聞こえると聞いていたので、その後しばらく母に感謝を伝え続けました。

やがて看護師さんとお医者さんが死亡を確認し、母は亡くなりました。

それからは淡々と片付けをして、入院してからも数日は書き残していた日記を読んで。

少し泣いて、でもやっぱり現実感がないからすぐに泣き止んだりして。

冷静な時間で、母の友人たちにメールを送ったり、ぼーっとふわふわした感覚の中でそんなことをしていました。

もう母が帰ってこないという実感が湧きません。

家にある妙な調味料の使い方はわからないし、母が食べられるように買っておいたお粥もいつ消費してくれるのか。

冷凍庫には母が小分けした食材が、母の文字で書かれたメモが貼られて保管されています。

夜食で目を覚ました母がキッチンでコトコトやっている時に私も出ていって「お腹へっちゃったの?」というやり取りが好きでした。

寝転がっている母の側を通ると、足でちょっかいかけてくる母が好きでした。

社会不適合者の私の悩みをたくさん解決してくれた人でした。

高校にいけなかった私に、いつまでも寄り添ってくれた人でした。

DVに耐え、やっと離婚して、そうしたら乳がんが見つかって、でもそれもやっつけて、ようやく新しい生活が本当に始まるところだったんです。

それなのに、たった3ヶ月の検査のない期間に転移した肝臓がんが見つかった時には末期って、一体どういうことなんでしょうか。

誰かが見落としていたんじゃないか。

何か手立てはあったんじゃないか。

悔やんでも悔やみきれません。

安置所で見た母の遺体の口から、一筋血がたれていました。

あんなに痛いと言っていたから、それだけ辛いのに耐えていたんだねと、もう私も耐えきれませんでした。

でも、やっぱりおかしいです。

これだけ頑張って、いろんなことを耐え抜いてきた人が、どうしてこんな死に方をしなきゃならないのか。

これから一生この悲しみを背負うことは辛いし、もう誰もいない母の部屋の扉を見ることすらも辛い。

いつか目を覚ました時、起きたら普通に母親がご飯を作っているという世界ならな。

やるべきことは多いのですが、何もやる気が起きないんですよね。

まだ記憶があるうちに、とりあえず流れは書いてみましたが……頭の整理に少しはなったのでしょうか。